最近InterFM(76.1)をよく聴くんですが、昨日偶然
アートフェアー東京エグゼクティブ・ディレクターの辛美沙さんが
RadioDaysでお話しされてるのを聴きました。今、林容子さん著「進化するアートマネージメント」を読んでいる途中なので、日本におけるアートと社会の関わり等について第一線で活躍する方から聴くのは興味深かったです(目から鱗な話ではなかったですけれど)。
今回はアートフェアー東京エグゼクティブ・ディレクターということでアートと経済についてのお話が主だったんですが、印象に残ったのは「
西洋でアートは哲学である」という主旨の言葉でした。
日本でアートといったら?欧米におけるパラダイムの存在
(ここからは個人の意見です)
私が日本の小学校から高校まで受けた芸術教育は実技のみ。一応写真がいっぱいのうすっぺらい教科書を買わされましたけど、授業中に教科書を開いて講義なんて1回もありませんでした。多分ほとんどの人がこういう実技重視の教育を受けたと思います。大学では評論や歴史的考察とかもやると思いますが、大学までいって美術史をとったりする人はそんなに多くないと思うので、ピカソはすごいと知っていても何故すごいのかを理解している人はそう多くないと思います。
つまり、日本で普通に高校まで通っても美術という中での理論的枠組み(評価のされ方)を学ぶ機会はなく、美術品を見ても自分の目に見える部分に頼りがちで、評価も一般にどう見えたか、どう感じたかに集中してしまう。
私が今でも覚えているのは(確か)中学校の教科書に載っていたDADAのメンバーで有名なジャン・アルプ(Jean Arp)のPlastron et fourchette [Shirtfront and fork]と思われる写真です。子供心に、これがアートかぁ、と思ったものです...(これなら私でも電動のこぎりを使って速攻作れる!みたいな)。
その後ポンピドゥーセンターのDADA展で関連作品を一挙にみることで、約100年前DADAとういうものがどういうことに挑んでいたのかが漠然とわかりました。その後アメリカの大学で美術通史をやって、やっと(西洋の)美術評価の仕方がわかったというわけです。それまで私は美術作品をみるにあたり、頭を空っぽにして、全く偏見のない状態でみることが良いと思っていました。アートは知識でみるものじゃないと考えていたからです。悪く言えば、アートは努力しないでも理解しうるものと思っていたとも言えます。しかし、元からある自分の経験や知識だけで評価するには限界があるのです(思わぬアイディアが出てこないわけではないですが)。しかも評価をするにあたってうまく表現する言葉が出てこない。それは勿論本人の言語力の問題でもあると思いますが、目には見えない概念や歴史といもうのを語る上で、その分野の単語であったり枠組みをある程度理解していなけでば作品を評することは困難です。それはどのような分野においても言えることで、アートに限ったことではありません。
DADAも含め一見単純な物や抽象画等、20世紀にはじまる「素人だって作れる/描ける」ような作品が評価されているのはその製作者の革新性であり、背後にある概念なのであり、単純に見ただけのインパクトや技術だけではないというのはコンテンポラリー・アートとみるとよくわかると思います。油彩の写実性だけでいったらピカソの13,14歳の作品は晩年の作品なんかよりよっぽど優れています。ではなぜ彼が高く評価されているのか。それはキュビズムにおけるキャンバスという平面上で時間の経過や複数の観点を同時に表現がするという新しい試み等があったからです。
辛美沙さんがトークの中で例に上げたジェフ・クーンズ(Jeff Koons)のバスケットボールが浮かべられた作品("Three Ball Total Equilibrium Tank (Dr. J Silver Series)")も見ただけでは「?」だと思います。この作品についてアーティストであるエリザベス・マンチェスターはこう評しています:
Enclosed in the watery vitrines, the basketballs become idealised objects which may refer to nostalgia or ambition – either way they are unattainable… Over a period of six months the balls gradually sink to the bottom of the tank and have to be reset. Because of this, they may be seen as representing transience, human frailty and vulnerability to change in fortune.
-Elizabeth Manchester on Jeff Koons’ seminal 1985 basketball “sculpture”
Transience(流動性)とかhuman frailty(人間の儚さ)なんて、なんでこのバスケットボールから読み取れるの?と思うかもしれません。大体に本人の想像の産物では?と思う人もいると思います。しかし、こういう概念は別にこの作品にだけ当てはまるものではなく、宗教画をみて人間の無力さを表現したともいえます。あえて言えば、彼女は昔から使われてきた評論の言葉で現代の作品を評しただけともいえるわけです。
またクーンズが評価されているのは、便器(「泉」1917年作)でお馴染みのマルセル・デュシャンにはじまるレディ・メイド(readymade[既製品])という一連の流れにさらに彼独自のアイディアを組み込んだからなのです(レディ・メイドはそれまでの絵画優位/視覚重視のfine artに風穴を開けたのです)。
つまり、こういう歴史的流れを把握しておかないと評価のポイントもわからないのです。
正直いって、歴史だの哲学だの小難しい話はしたくないという人もいると思います。700ページ以上もある近代美術の教科書なんて...。もちろん読む読まないは個人の自由であり、アートの楽しみ方は人それぞれあってしかるものだと思います(むしろこのブログが長い?)。
しかし、私たち鑑賞者側ももっと評価できるようにならないと北斎のように日本のアートは海外に評価されるまで待つことになってしまうのではないでしょうか。ビジュアル・リテラシーの力を上げるのはそう簡単ではないですが、村上氏の言うように日本の「ルール」作りは必要だと思います。
話はずれますが、現在の問題としてアートという分野に限らず考えていることを言語化できていない点もあると思います。どこかのテレビ番組でも文章が書けない現代人が取り上げられていましたし、新聞でも書家の方が日本の書に理論性がないことを指摘していました(
記事)。これを続けると話が脱線するのでこれ以上は書くのはよしておきます。
こんなに偉そうに書いてきましたが、私だって未だに書くことが苦手です。専攻は理系だったので文系の抽象概念てんこもりの本には苦労しましたし、文章書いてはいったりきたりの繰り返し...。

オススメの本に「ツーアート[Two Art](ビートたけしX村上隆)」というのがあります。世界を股にかけて活躍する2人がアートとは?などいろいろなことについて語っております。村上隆氏は西洋アートに置ける「ルール」について言及しているので、専門書で頭を悩ませる前に読んだりするといいと思います。
ここまで欧米流アートの仕組みを評価してきましたが、勿論これがパーフェクトなわけではありません。
現代の商業主義的にアートに疑問を呈する声も多々あります。
その話は追々・・・
Online Picasso Project
Jeff Koons